日本の広島で生まれ、広島で育ち、22年間を過ごした。
広島の人は年に一回、必ず原爆ドームと平和祈念公園へ訪れる。
幼稚園や小学生は遠足で歴史を学ぶ。
図書館にはだしのゲンが全巻あったりする。
僕が小学生の時は、被爆された方のお孫さんのお話を伺う機会があった。
何をいっていたのか、それは覚えていないが、あんなに小さかったのに記憶に残っている。
原爆ドームは広島市内にあるから、僕の地元からは割と遠くて、社会人になってから訪れることはなかった。
この記事は、たまたま近くのホテルに泊まり、せっかくなら写真を撮ろう、と朝一で散歩した時の気づき。
広島の原爆ドーム
広島には原爆ドームがある。
第二次世界大戦で人類史上初めて核兵器が使用され、唯一、当時のまま残っている建物だ。
1945年8月6日午前8時15分17秒
これは、原爆が投下された日時だ。
この日は、ニュースで大々的に報道され、移動する人や学校に通ってるときなど、大体の人が黙祷を捧げる。
東京に住んで感じたのは、黙祷するのは広島の人くらいだってことだ。
広島はより平和を祈っている人が多い、と外に出て感じる。
さて、僕がおとづれたのは24年1月1日だった。
数十年ぶりの原爆ドームのそばでは、広島市民や平和を祈る人たちがおった折り鶴が飾られている。
僕も小さい頃、毎年、折り鶴を追っていた。
広島市民は全員が折り鶴を作れる、と言われているくらいだ。
年を重ねて見てみると、平和であることへの感謝が溢れてくる。
昔はなんとなくだったはずだけど、不思議だ。
1月1日。観光シーズンでもない日に原爆ドームに来るのは僕くらいだろうと思ってたら、いくつかの人たちがいた。
「花を手配りして、平和を祈りましょう」と活動している人たち。
特に驚いたのは、外国の人が多かったことだ。
一人一人が祈るような仕草をしていることに、広島だけでなく、世界の平和を大いに感じた。
原爆ドームのそばを歩くと、ガイドさんが外国の方に情熱をもって説明をしていた。
ほんと、広島すき。
ガイドさん、そこらへんを歩いてるのでぜひ話しかけてみてほしい。
ふと、原爆ドームの歴史が書いてあったので読んでみた。
僕はとても驚いた。
原爆ドームの正式名称は「広島県物産陳列館」、これを設計したのはチェコ人の建築家ヤン・レツル(Jan Letzel)だったのだ。
それを知った時、なんとも言えない縁を感じた。
チェコとのつながり。
残念ながら、ヤン・レツルの建造物はほとんど現存していない。その分、原爆ドームを見るたびにチェコとのつながりを感じるようになった。
そして2月にチェコを訪れる。
チェコの産業貿易省(Ministry of Industry and Trade)の建物を見ると、広島の原爆ドームと瓜二つだ。
建築の設計された方はヤン・レツルではないようだけど、こんな遠くまで来て、広島とチェコにつながりを見つけられたのは幸せだった。
最近、駐在チェコ大使館の方がつぶやいていた。
国を通じて、意思や歴史を継いでいく。
美しい町ナチョドの新しいコミュニティ・センターのオープニングに出席した。ナショド出身の著名な建築家であり、後に広島原爆ドームとなる広島県産業奨励館を設計したヤン・レッツェル氏の遺志を継ぐものである。
https://twitter.com/NagaokaKansuke/status/1786297889993458114
Zúčastnil jsem se otevření nového komunitního domu v krásném městě Náchod. Představuje odkaz významného architekta a náchodského rodáka Jana Letzela, který navrhl průmyslovou propagační halu hirošimské prefektury, z níž se později stal Dóm hirošimské atomové bomby. pic.twitter.com/yh3NYOC1BY
— NAGAOKA kansuke (@NagaokaKansuke) May 3, 2024
変わり続けることは、良いことだ。
ITも発達し、AIで情報社会が変わろうとしている。
しかし、過去の大切な意思や歴史は、変わらずに残し続ける必要があると思う。
Summary
素晴らしい土地に生まれた。そう感じることのできた出来事だ。
それは同時に、外に出たからこそ分かったことだ。
地元を大切にするなら自ら行動して、いろんな土地を見て触れることが何よりも大切にすべきことだと思う。